HAVANOは冒険好き。
せっかくどこまでも走れる脚があるんだから、普通なら車とか電車で出かけちゃうところを
足でたどってみた、
をここに記載してゆこうと思いました。
こどものころ、身体がよわくてすぐに扁桃腺が腫れて、親に遊びにいくのをとめられちゃうようなつまらない毎日だったので、今頃 帳尻を合わせています。
さてさて、最初の冒険は、、、、どんなでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
走りながら歌ったのは
たしか一昨年の北高尾山陵付近が最後。
歌をうたう理由は、もちろん熊除け。
でも、高尾の時は周囲に人がいたからね。実際に熊も出たし。
今度は違う。ひとり
それは、じぶんと親とおばあちゃんのルーツを辿っていたラストステージの唐澤山神社の帰り。
言ってみれば観光地なんだけども、みなさん車で来ていれば当然、この唐澤山のハイキングコースの山道はだれもいない。
すごいね。やっぱり、あの神社は藤原秀郷公のお城だった場所だから、敵が容易に攻めてこられないようになってる!戦いが繰りかえされた場所だもの。
下り始めて分岐を左に折れてからが、すごい。
地図で観たけど、谷に下りて行く道。
熊鈴もコンパスも二万五千分の一の地図も持ってはいたけど。
そういうのじゃない、物の怪の気。
やっちまった感はあったけど引き返すのはもっとやだ。まだ14時台だというのに、暗い草が鬱蒼とした場所。熊はいないとしても猿とか猪はいるのでは、、と感じた。
熊鈴は起動した。歌も歌ってたんだけど、なにを口ずさんだか覚えてない。セミの声にじぶんの声がかき消されるのだけは感じた。
ただ、じぶんを信じて速攻で降りつづけるしか、なかった。左は落ちたらそれなりに傾斜がある、たぶん沢。対岸には岩。
天狗岩でみたような柱状節理の構成だと思う。だから落ちたくない。ダブルマンサンダルでよかった。
ほどなく、軽トラのタイヤ後がつく林道へ出た。、、ほっとはしたが、ヒトが入るというのも知るとなかなかこわい。
とっとと、公道にでるっきゃない。
最速ででて、安堵。たかだか9分の出来事。
里に降りたらひとんちにまだ青いイチジクがなっていた。とても鮮明だった。
(2020年誕生月へのじぶんへの贈りもの:2020/09/05)
ご参考装備:もちろんファーストエイドキット、ポイズンリムーバー、ライト2種、
ファイントラックポリゴン2UL、Gore雨具、ナイフ、カイロ、emergencyブランケット、
シングルマンサンダル、予備紐、25,000分の1図[栃木、佐野、田沼]、予備バッテリー、
どうしてこんなに持っていたかというと、単独であり、
お隣の太平山まで行けたら行く予定だったから。
___________________________
栃木県佐野市って、、、
今回ゴールした佐野市の駅前にて
このような記述のある碑をみつけました。
.............
司馬遼太郎は終戦のときに
佐野の植野小にあった部隊に駐屯していた。
愛着のある土地だったそうだ。
佐野の町が戦後変わった姿をみたくなくて、もう一度訪ねたいとしながら、訪ねることが無かったそう。
わたしの祖母の家は、むかしからきちんと暮らしていて夏の夕方になると、よく打ち水をさせられた。
道路を石灰や砂利を積んだ大きなトラックが往来していたからかもしれない。お掃除は朝晩きちりと行われていて、いつも明治生まれだった経営者の祖母がしゃがんだ姿で、草むしりや雑巾掛けをしていたことを想い、今現在、サボっていたりすると、背筋が伸びるのだ。足腰を丈夫にする日常であったことを覚えている。
せっかくどこまでも走れる脚があるんだから、普通なら車とか電車で出かけちゃうところを
足でたどってみた、
をここに記載してゆこうと思いました。
こどものころ、身体がよわくてすぐに扁桃腺が腫れて、親に遊びにいくのをとめられちゃうようなつまらない毎日だったので、今頃 帳尻を合わせています。
さてさて、最初の冒険は、、、、どんなでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
走りながら歌ったのは
たしか一昨年の北高尾山陵付近が最後。
歌をうたう理由は、もちろん熊除け。
でも、高尾の時は周囲に人がいたからね。実際に熊も出たし。
今度は違う。ひとり
それは、じぶんと親とおばあちゃんのルーツを辿っていたラストステージの唐澤山神社の帰り。
言ってみれば観光地なんだけども、みなさん車で来ていれば当然、この唐澤山のハイキングコースの山道はだれもいない。
すごいね。やっぱり、あの神社は藤原秀郷公のお城だった場所だから、敵が容易に攻めてこられないようになってる!戦いが繰りかえされた場所だもの。
下り始めて分岐を左に折れてからが、すごい。
地図で観たけど、谷に下りて行く道。
熊鈴もコンパスも二万五千分の一の地図も持ってはいたけど。
そういうのじゃない、物の怪の気。
やっちまった感はあったけど引き返すのはもっとやだ。まだ14時台だというのに、暗い草が鬱蒼とした場所。熊はいないとしても猿とか猪はいるのでは、、と感じた。
熊鈴は起動した。歌も歌ってたんだけど、なにを口ずさんだか覚えてない。セミの声にじぶんの声がかき消されるのだけは感じた。
ただ、じぶんを信じて速攻で降りつづけるしか、なかった。左は落ちたらそれなりに傾斜がある、たぶん沢。対岸には岩。
天狗岩でみたような柱状節理の構成だと思う。だから落ちたくない。ダブルマンサンダルでよかった。
ほどなく、軽トラのタイヤ後がつく林道へ出た。、、ほっとはしたが、ヒトが入るというのも知るとなかなかこわい。
とっとと、公道にでるっきゃない。
最速ででて、安堵。たかだか9分の出来事。
里に降りたらひとんちにまだ青いイチジクがなっていた。とても鮮明だった。
(2020年誕生月へのじぶんへの贈りもの:2020/09/05)
ご参考装備:もちろんファーストエイドキット、ポイズンリムーバー、ライト2種、
ファイントラックポリゴン2UL、Gore雨具、ナイフ、カイロ、emergencyブランケット、
シングルマンサンダル、予備紐、25,000分の1図[栃木、佐野、田沼]、予備バッテリー、
どうしてこんなに持っていたかというと、単独であり、
お隣の太平山まで行けたら行く予定だったから。
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栃木県佐野市って、、、
今回ゴールした佐野市の駅前にて
このような記述のある碑をみつけました。
■この国のかたち 司馬遼太郎 文藝春秋の記事
この町は13世紀からの鋳物や大正期の佐野宿など絹織物による富の蓄積のおかげで町並みにには大きな家が多く、戦時中には露地に打ち水などがなされていて、どの家もどの辻も町人による手入れがよく行きとどいていた。
軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄がよく、じぶんがこの子らの将来のために死ぬなら多少意味があると思ったりした。
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司馬遼太郎は終戦のときに
佐野の植野小にあった部隊に駐屯していた。
愛着のある土地だったそうだ。
佐野の町が戦後変わった姿をみたくなくて、もう一度訪ねたいとしながら、訪ねることが無かったそう。
わたしの祖母の家は、むかしからきちんと暮らしていて夏の夕方になると、よく打ち水をさせられた。
道路を石灰や砂利を積んだ大きなトラックが往来していたからかもしれない。お掃除は朝晩きちりと行われていて、いつも明治生まれだった経営者の祖母がしゃがんだ姿で、草むしりや雑巾掛けをしていたことを想い、今現在、サボっていたりすると、背筋が伸びるのだ。足腰を丈夫にする日常であったことを覚えている。